こんなはずではなかったのである。
今ごろは、神戸の海の見えるカフェで、優雅にモーニングコーヒーを飲みながら、昨晩のトラの結果を報じるデイリースポーツを読んでいるはずだった。ときにバタートーストをかじりながら、夏の朝を、涼しく過ごしているはずだった。
それが、どうして、こんなディーゼル機関が響く列車に揺られているのだろう。車窓からは海すら望めない山を鈍足で走る。コーヒーが、お徳用ポカリスエット500_リットルに化けている。しかも、生ぬるい、自分が飲むにはもったいなく人にあげたくなるような味である。トラがどうしようと知ったことのない日経新聞が目の前にある。
はるばる貴重な資金と時間を、一夏の思い出作りに投げ入れようと意気込んで来たというのに、どうしてこんなにツマラナイ旅をしているのだろう。旅の途中、我に返ると、いつも「ツマラナイナア、早ク帰リテエナア」と考えている自分がいる。それに気がつき、さらにドーンと気分が憂鬱になるのである。
旅の仕方が誤っているのかもしれない。「趣味は旅行です」なんて言って、じつは、旅行なんてこれっぽっちも好きじゃなくて、フラフラとどこかに出かけるという格好だけが気に入っていて、内容なんて無いよう…なんて、ダジャレを言って、自分で笑うしかなくて…ああ、哀しい。
それでも、列車は、山の中を行く。海は、どんどん遠ざかってゆく。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今回の旅には、連れがいる。
旅好きの同級生2人…とはいえ、学校に通っていたころは、1度も一緒に出かけたことはない。今回も2、3回目の同伴である。また、旅好きといっても、明らかに僕とは趣向のベクトルが違う。説明はうまくできないけれども、連れ立って旅しているくせに、前泊の神戸では、3人ともばらばらの宿を寝床にした、といえば分かるだろう(もっとも、やむなく、そうなったのであるが)。
前夜は、大阪で買ったタコヤキをほおばりながら、神戸・三宮に入った。翌日以降の予定を決めようと、電車で移動中に話し合いがはじまった。
「神戸で1日、ゆっくり過ごしたいねえ」
と、僕は意見を言った。
「いいんじゃない? 俺は、宮本武蔵に行ってこようと思うんだけど」
「何それ?」
「あれじゃないの、智頭急行線の駅でしょ」
「おもしろそうだね」
「じゃあ、みんなで宮本武蔵駅に集合、ってことで」
「すると――姫路から姫新線で佐用駅まで行って、そこから乗換えか」
「あんまり、列車の本数が無いねえ。この、朝一番の列車に乗らないと乗り継ぎがうまくいかないね」
「じゃあ、三ノ宮が6時26分発の電車だね!」
「けってーい!(パチパチパチ)」
決定!である。気が付いたときには、2人とも散り散りに神戸の街に消えていた。しまった、神戸の1日が、宮本武蔵になってしまった。
まあ、こういう路線変更もまた一興…と思いつつ、南京町でラーメンをすすったのであるが、ホテルに戻りベッドに転がると、どうも腑に落ちないのである。どう考えたものか、と、もう1回ひっくり返ったことまで、覚えている。
ハッ、と思った。
「行かなくては。」
決めたことだもの、と受け入れたというわけではなくて、頭の中で虫が鳴いたからである。いや、頭の上で、虫が鳴いている。いや、鳴いているのは携帯電話である。鳴いているのではなく、鳴っている。
「あ!」
「もしも〜し!もう少しで三ノ宮駅だけど?」
「あ…」
もう少しで三ノ宮駅だけど?という時間になっていた。時計は、無常にも、6時15分を示していた。
「三ノ宮…ね、うん…」
それ以上、何も言えず、電話を切った。無視してそのまま、寝てしまおうかと思った。そうすれば、素敵な神戸の1日が実現する。でも「素敵な」1日になるか? いずれにせよ、いま、起きなければ。と、考えたことは記憶にある。
それから、どうやって2km離れた三ノ宮駅に駆けつけ、予定の6時26分発・姫路行きの電車に乗ったのかは覚えていない。おそらく、その状況を記憶する方に、脳みそのキャッシュメモリーは割り振られていなかったのだと思われる。
飛び乗ったところから、話は続いて、そして前出の「こんなはずでは…」に至る。朝から、ポカリスエット1本だけ口にしていないから、こう余計なことしか思い出さないのだろう。
当然、三ノ宮駅で買い物する暇などなかった。姫路駅での乗り継ぎのとき、連絡通路の途中にあった自販機で高速購入したポカリだけが、乾ききった体を潤す水分となったが、姫新線の列車に揺られていると、窓からさんさんと差し込む日差しに、たった今補給した水が、昨日までに蓄えたものとともに吸い取られてゆく気分であった。
「あ〜腹減ったあ〜」
と、連れが叫んだ。要するに、そういうことなのである。
乗った姫新線の列車は、乗り換える佐用駅まで行かず、途中駅で乗り継がなくてはならなかった。その時間は26分あった。そこで、食料・水分チャージができるはずだ。もう、こうなったら、数分でも早く、ピットインしてチャージするしかあるまい。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
8時14分、列車は終点に到着した。日本の鉄道は時刻が正確であるが、このときほど、あまりの正確さに呆れたことはない。ちょっとくらい、早く着いてもいいものである。
その駅は、播磨新宮駅である。
1本のホームをはさんだ、反対側の列車が乗り継ぎの列車である。荷物を移動させて、さっそく駅の外に食料と水を求めて出て見た。
かんかんと照りつける太陽。そのバックには、腹立つほど青い空が広がる。
天を仰ぐと、そのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥る。こんなところで行き倒れしてしまっては、何のために空が青いのか分からない。
そんなことを考える、自分が一番わからない。これは、まずい。早くチャージせねば、危ない。
小走りで駅前広場に抜けると、1軒だけ開いている店があった。中に入り、とにかくスグ食える、パンとおにぎりを買いあさった。冷たいアクエリアスも買った。すぐに列車に戻り、アクエリアスをぐいぐいと口から体に満たし、おにぎりとパンを一緒に流し込んだ。
ふう〜っ
腹が満たされると、人は、ほっとする。ため息が出る。そして、冷静になれる。
さっきまでの焦りが、実にムダなエネルギーの浪費と気が付くのである。さっきまで考えていたことが、実は、大したことないことを難しく考えていただけのこととバッサリ切り捨てるのである。
見たまえ、この青い空。白い雲。かんかんと照らす太陽が、気持ちいいではないか。それだけで、十分!
そして、気が付いた。播磨新宮駅の駅舎からホームにあがる通路に、見事なまでのヒマワリが、高い空に追いつこうと背を伸ばし、太陽に向いて咲き誇っているのである。その先には、赤い車体の姫新線の列車が泊まっていた。
青い空、緑の山、そして黄色と赤の駅の風景が、こんなにも鮮やかに映える駅というのは、いまだかつて出会ったことはない。眼に焼きついた彩りが、まだ消えることはない。
こういう出会いこそが、旅の醍醐味である。ああ、来てよかった!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
8時40分、姫新線は播磨新宮駅を後にした。
「さあ、宮本武蔵に、レッツゴーだ!」
ゴキゲンになった僕であったが、連れ2人は、その変わり身のさまに呆れて物も言えないようだった。
ま、神戸のカフェでモーニングコーヒーは、いつでも飲めるでしょ? 違うか…
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