特集 JR可部線廃止問題

可部線全通30年 JR可部線の加計―三段峡間(14.2km)が開通して30周年を迎えた。いずれは陰陽を結ぶ路線にと地域の希望を担っていた。だが、慢性的な赤字から今、延伸どころか可部―三段峡間の廃止案に揺れている。可部線が果たした役割と期待、利用促進に向けた沿線住民たちの足跡をたどった。(中国新聞1999年7月28日〜29日掲載)

木材貨物駅 薄れた役割


小旗を振り、鼓笛隊の演奏で祝賀列車を迎える子どもたち =1996年7月27日、戸河内駅
 中国山地の山々が迫る広島県山県郡戸河内町の三段峡駅。島根県に向かって約30mほど赤さびた鉄路が延びている。町役場には島根県側でのトンネルや架橋工事の様子を写した写真も残る。
 広島市西区のJR山陽線横川駅から太田川沿いに三段峡に至る可部線は、かって陰陽連絡鉄道(広浜鉄道)構想の一部だった。1969(昭和44)年に開通した加計―三段峡間は戸河内町の中心部の名を取り「本郷線」と呼ばれていた。
 「山陰まで鉄路が抜けていくという将来に夢を託していたんです」と山県郡の加計町商工会会長の河野仁士さん(61歳=当時=)。加計駅での本郷線開通式典の模様を8mmフィルムに収めている。
 始発の広島駅を出発した四両編成のディーゼル車は超満員。約1500人の町民が迎えた。三段峡へ向かう列車を沿線住民が小旗を振って歓迎し、戸河内中学校の開通式には1200人が集まった。
 その余熱もさめやらぬ5年後、三段峡から山陰へ向けて工事は着工される。同郡芸北町、島根県那賀郡金城町今福を通り、浜田市まで54kmを結ぶ「今福線」。当時、旧国鉄は「今福線の完成で初めて陰陽を結ぶ大動脈としての効果を発揮できる」と位置付けていた。
 可部線の敷設請願は1896(明治29)年12月にさかのぼる。「陰陽を結ぶ新たな物流動脈に」と地元の実業家たちがその中心に立った。1911年に可部までが完成。以後も陳情を繰り返し1936(昭和11)年、安芸飯室まで延び、戦争の中断期を挟んで五四年に加計まで開通した。
 かつて加計町や可部地区は、西中国山地の木材集積地だった。可部線の延伸は、戦争で疲弊した広島など都市部復興に向け、大量の木材など運ぶ役割も担っていた。加計、布駅(広島市安佐北区安佐町)からはまくら木やパルプ材など大量の木材が搬出され、可部線で全国へ運ばれた。
 「加計町で製品化されるまくら木は年間約1万トン。加計駅からは3300トン余、布駅扱いは2900トン、トラックが3800トン(昭和34年度)」と当時の新聞は伝えている。
 だが、「本郷線」の工事が始まった1965年ごろには、すでに木材需要は安価な外材に移りつつあった。貨物駅としての戸河内、筒賀駅の寿命は実質、2年ほどだった。オイルショックや旧国鉄再建計画が持ち上がり1980年、広浜鉄道工事は凍結された。
 過疎化やモータリゼーションのあおりで、住民や観光客の「本郷線」利用も減った。可部―三段峡間の1日平均の乗車人員は1977年2578人、1997年968人。こうした中、98年9月、JR西日本は「本郷線」廃止を打ち出した。

沿線住民、アイデア絞る


市民グループが可部線の利用促進のため企画し、緑井―三段峡間を走ったお座敷列車 =1987年5月3日
 広島県山県郡加計町で99年7月26日、「がんばれ!かべせんシンポジウム」があった。約500人が集まり、加計―三段峡間の存廃問題で揺れるJR可部線の利用促進や存続の道を探った。この中で、可部線の魅力を発見した人がまた一人増えた。
 広島市を中心にタウン誌「月刊ぴーぷる」を発行する小島光治さん(50歳)。シンポのパネリストの一人である。前日、生まれて初めて可部線に乗った。「緑を抜けていく感じが実に新鮮だった。この環境を訴えれば存続への説得力が増す。私も可部線の魅力を雑誌で紹介していきたい」と話す。
 シンポを主催した可部線対策協議会は、沿線の広島市と加計、戸河内町、筒賀村、佐伯郡湯来町の一市三町一村でつくる。1984(昭和59)年、可部線が旧国鉄の第三次廃止路線候補になったのがきっかけだった。
   相前後して加計町の「JR可部線存続させる会」の前身である官民一体の「存続協議会」や市民グループ「可部線を蘇らす会」などが誕生。ともに多彩な利用促進策を進めてきた。
 図画、写真コンテスト、ゲートボール大会、お座敷列車や納涼列車などの運行…。これらの活動には地元住民たちのさまざまな思いがこもる。
 1969年に完成し今年30歳となった加計―三段峡間の敷設には、沿線住民が土地を提供するなど協力してきた。加計町下殿河内、農業栗栖藤行さん(70歳)の水田は中央を線路が横切った。田植えなどには苦労する。
 「でも、田畑を削る苦しみより、明治来の悲願だった鉄道への思いが強かった。地域活性化へみんなが心を一つにした。だから存続を強く願うんです」。
 三段峡駅で委託職員を続けている庄野将憲さん(67歳)は「乗り継ぎの悪さ、本数の少なさなど苦情の対応に追われてた30年間だった」と振り返る。
 全通当初から地元は高速化や増便などダイヤ改正を求めてきた。だが、逆に早朝の三段峡発の上り線がなくなり戸河内町からの広島市内通勤が不可能になるなど利用しにくくなった。
 だから、庄野さんは98年9月に赤字を理由に廃止JR西日本が打ち出した打ち出した加計―三段峡間廃止計画には反発を覚える。もともと可部線は他のローカル線と同様、赤字路線。「それを何とかしようとする住民の声を汲み取る努力がJRには欠けていたのではないか」
 広島市の元国鉄機関士の木原博明さん(71歳)は同区の祇園公民館で開かれる可部線の魅力を紹介する講座に通っている。「目をつむっていてもどこか分かるぐらい可部線を走ったが、新しい景観、知らなかった歴史などに出会えるんです」と可部線の可能性を強調する。
 昨年の廃止計画浮上以後も存続運動は続く。五サー市、三段峡まつり、神楽競演大会の宿泊パック…。地元住民のアイデアは尽きることを知らない。


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