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![]() 可部線の敷設請願は1896(明治29)年12月にさかのぼる。「陰陽を結ぶ新たな物流動脈に」と地元の実業家たちがその中心に立った。1911年に可部までが完成。以後も陳情を繰り返し1936(昭和11)年、安芸飯室まで延び、戦争の中断期を挟んで五四年に加計まで開通した。 かつて加計町や可部地区は、西中国山地の木材集積地だった。可部線の延伸は、戦争で疲弊した広島など都市部復興に向け、大量の木材など運ぶ役割も担っていた。加計、布駅(広島市安佐北区安佐町)からはまくら木やパルプ材など大量の木材が搬出され、可部線で全国へ運ばれた。 「加計町で製品化されるまくら木は年間約1万トン。加計駅からは3300トン余、布駅扱いは2900トン、トラックが3800トン(昭和34年度)」と当時の新聞は伝えている。 だが、「本郷線」の工事が始まった1965年ごろには、すでに木材需要は安価な外材に移りつつあった。貨物駅としての戸河内、筒賀駅の寿命は実質、2年ほどだった。オイルショックや旧国鉄再建計画が持ち上がり1980年、広浜鉄道工事は凍結された。 過疎化やモータリゼーションのあおりで、住民や観光客の「本郷線」利用も減った。可部―三段峡間の1日平均の乗車人員は1977年2578人、1997年968人。こうした中、98年9月、JR西日本は「本郷線」廃止を打ち出した。
図画、写真コンテスト、ゲートボール大会、お座敷列車や納涼列車などの運行…。これらの活動には地元住民たちのさまざまな思いがこもる。 1969年に完成し今年30歳となった加計―三段峡間の敷設には、沿線住民が土地を提供するなど協力してきた。加計町下殿河内、農業栗栖藤行さん(70歳)の水田は中央を線路が横切った。田植えなどには苦労する。 「でも、田畑を削る苦しみより、明治来の悲願だった鉄道への思いが強かった。地域活性化へみんなが心を一つにした。だから存続を強く願うんです」。 三段峡駅で委託職員を続けている庄野将憲さん(67歳)は「乗り継ぎの悪さ、本数の少なさなど苦情の対応に追われてた30年間だった」と振り返る。 全通当初から地元は高速化や増便などダイヤ改正を求めてきた。だが、逆に早朝の三段峡発の上り線がなくなり戸河内町からの広島市内通勤が不可能になるなど利用しにくくなった。 だから、庄野さんは98年9月に赤字を理由に廃止JR西日本が打ち出した打ち出した加計―三段峡間廃止計画には反発を覚える。もともと可部線は他のローカル線と同様、赤字路線。「それを何とかしようとする住民の声を汲み取る努力がJRには欠けていたのではないか」 広島市の元国鉄機関士の木原博明さん(71歳)は同区の祇園公民館で開かれる可部線の魅力を紹介する講座に通っている。「目をつむっていてもどこか分かるぐらい可部線を走ったが、新しい景観、知らなかった歴史などに出会えるんです」と可部線の可能性を強調する。 昨年の廃止計画浮上以後も存続運動は続く。五サー市、三段峡まつり、神楽競演大会の宿泊パック…。地元住民のアイデアは尽きることを知らない。 |